わたし アドベントカレンダー 1日目

わたし アドベントカレンダーは、わたしがわたしのことをより良く理解するためのカレンダーです。この文章は12月1日に書かれましたが、このブログの編集権限が失効していて掲載できなかったため12月4日の公開となりました。


最近 Notion というツールを使い始めた。情報を管理するためのツールで、読んだ本や行った場所など様々なことを記録できる。中身はデータベースで、それを綺麗にラッピングして使いやすく見やすくしたものという触感がある。

これで驚いたのは、人生のかなり多くの要素を単に表データに集約することができるということだ。人生は曖昧な形をした破片で構成されていると思い込んでいたが、実際には多くのものがほぼ同じ形や構造を持っていて、それを表の1行として記録してしまってもそのエッセンスのほとんどは失われない。人生は無味乾燥なデータの集合などではないと認識していたのは単に認知の歪みであって、本質的には意外と単純な構造を持っているらしい。(というのも当然で、突き詰めれば世界は素粒子の集合であって、それを感情豊かに記述するのは難しい。不確定性原理のような曖昧さはあるけれど。)

とはいえもちろん表データには収まりにくい形式の要素もある。たとえば何を考えて何を思ったかということである。しかしそれも、既存のデータベースに格納して俯瞰するのがそれほど容易ではないというだけで、もしかしたらなんらかの大きな構造が明確に存在するのかもしれない。だとすれば、それらの破片を拾って寄せ集めてみれば何かが見えてくる可能性がある。

わたし アドベントカレンダーの動機のひとつはそのようなものである。


ほとんど嘘である。

ブログの記事にする以上、まず最初に「わたし アドベントカレンダー」とは何かの簡単な説明が必要になる。他人のために何か有用な情報を提供しようというつもりはない。そこで一応「わたしがわたしのことをより良く理解するため」と書いたが、これは意図を的確に反映したものではない。自分のために書くことと、自分を理解することとの間に飛躍がある。なんとなくかっこいいかなと思って理解と書いてみただけで別に理解のことはなにも考えていない。

ところで人生を記録することについては関心がある。これは村上春樹の「風の歌を聴け」の影響で、あの小説はまず書くことについて書かれることから始まる。(「完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね。」)

そういえば記録といえば Notion だ、ということで Notion を使い始めたと書いた。そのあとは、自然に書き進めたら人生の理解についての話が出てきた。でもそれは意図して出てきたものではなく、文章が先行して、考えがそれをあとから追っている。

こういう適当に文章を書くときしばしばこういう現象が起こる。自分の中にある知らないものが掘り起こされるようでおもしろい。これを突き詰めるとシュルレアリスムの自動筆記とかになるんだろう。でもあそこまで本質を凝縮してしまうとあんまりおもしろくないよね。


村上春樹に「三つのドイツ幻想」という作品がある(シューベルトみたいだよね)。はっきり言って全然おもしろくない。

最近になってこれは雑誌 BRUTUS のために書かれたものだと知った。なんで知ったかというと、BRUTUS の村上春樹特集に復刻記事として出ていたからである。 それでやっとわかったんだけど、これは文庫本に収録されている作品として正面から向き合うものではなく、雑誌の1ページとして雑に消費するために書かれている。グッチの新作コレクションの広告と同じで、なんとなくお洒落でなんとなく意味ありげな雰囲気を漂わせるのが主目的であって、きちんと向かい合って意味を解釈することを求めているわけではない。文庫本に収録されながらそう消費されるのはなかなか難しい。

それで… 1分くらい立ち止まって考えたけれど、ここには何の知見も教訓もない。なんのために書いたんだろう?


  • フランツ・シューベルト: 12のドイツ舞曲 D. 420
  • フランツ・シューベルト: さすらい人幻想曲 D. 760

インターネットにアフィブログみたいな無があふれていることについて不満を持つ人がたまにいるけど、価値のある情報しか発信してはいけませんというのもまた疲れてしまうよね。